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憲法論議の新たな視点 ~ 自衛隊は「合憲だからこそ」明記せよ

2026.02.09

2026年2月8日投票の総選挙において高市自民党が歴史的大勝利をした。おそらく憲法改正論議も今後ますます活発になることが予想される。そこで、今回は憲法論議ではこれまであまり語られなかった新たな視点を提供しようと思う。

日本の憲法論議は、長らく「言葉の迷路」を彷徨い、そして「自衛の否定」という呪縛のもとで語られ続けてきた。憲法9条をめぐる「護憲か改憲か」という二項対立は、今や思考停止の同義語ですらある。しかし、我々が直視すべきは、感情的な理想論でも、現状追認の妥協でもない。立憲主義という「法理」の再構築である。

≪「自衛権」は憲法が与えた権利ではない≫

まず、根本的な誤解を解く必要がある。「自衛権を憲法に書き込むべきか」という問い自体、実は法理学的には筋が悪い。

そもそも自衛権とは、国家が主権主体として存在する以上、当然に備わっている「固有の権利(自然権)」である。国連憲章51条が「inherent(固有の)」と記す通り、それは憲法が創設するものではなく、国家の存立に付随する「生存の本能」に近い。

憲法の本来の役割は、国民に権利を「与える」こと以上に、国家の権力行使を「制限し、統制する」ことにある。問題は「自衛権があるか否か」ではなく、その「行使がどう縛られているか」なのだ。

≪9条2項は「剥奪」ではなく「侵略の封印」である≫

ここで、9条2項の「戦力不保持」が牙を剥く。もしこれを「一切の実力を排する」と解釈すれば、自衛権は存在するが行使できないという、論理的な自己矛盾に陥る。行使不能な権利は「制限」ではなく「剥奪」であり、それは立憲主義の枠組みを逸脱している。

では、9条2項をどう読むべきか。条文の構造に立ち返れば、2項は「前項の目的(=国際紛争を解決する手段としての武力行使の放棄)」を達するために存在している。

つまり、9条の本質は「自衛の否定」ではなく、徹底した「侵略戦争の禁止規範」にあると解釈すべきだ。戦力不保持とは他国を占領・威嚇するための「侵略的軍備」の否定であり、交戦権否認とは「侵略戦争の主体」としての国際法上の地位の否定である。

≪歴史が示す「侵略禁止」の実態≫

制定史を見ても、この読み方は自然だ。GHQ草案が9条を構想した背景には、「日本を再び侵略戦争の主体にさせない」という明確な意図があった。一方で、国家の自衛権そのものを放棄させるという発想は、国際法上も存在しない。

実際、制定後すぐに警察予備隊、保安隊、そして自衛隊へと実力組織が整備され、政府も一貫して「自衛権は否定されていない」と説明してきた。制度運用の実態は、最初から「侵略戦争禁止規範としての9条」に近かったのである。ただ、それを理論化せず、解釈の継ぎはぎでつなぎ止めてきた点にこそ、これまでの不誠実さがあった。

≪「統制」のための改憲へ≫

この視点に立てば、自衛隊は現状の憲法下ですでに「合憲」である。侵略を目的としない実力組織は、9条が禁じる「戦力」には当たらないからだ。

しかし、だからこそ、「合憲だからこそ、憲法に明記する」という逆説的なアプローチを提唱したい。

自衛隊を憲法に位置づける意義は、その存在を認めること以上に、その「役割の輪郭」を確定させることにある。何のために存在し、誰が指揮し、いかなる手続きで動くのか。これらを憲法に刻み込むことは、軍事力の「追認」ではなく「コントロール」である。

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」して国家の生存を無防備に晒すことも、解釈の拡大で軍備を際限なく膨らませることも、成熟した国家の振る舞いとは言えない。自衛隊を「解釈の恣意性」から引き出し、憲法という光の下で厳格に統制する。それこそが、21世紀の日本にふさわしい現実的な平和主義の姿である。この視点こそが、「改憲か護憲か」という単純な対立を超えた、成熟した憲法論の出発点ではないだろうか。(森下伸郎)

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